松本市PTA連合会の会報誌に掲載された、山崎貴監督のインタビュー記事を掲載許可をいただきましたので全文掲載いたします。
掲載:松本市PTA連合会会報 きずな vol.163(2021.2.21号)
僕を作ったノート
●聞き手: 矢嶌大輔 (附属中) 佐々木奈美 (山辺中) 市川みか (本郷小) 清沢浩司 (鉢盛中)
●構成:矢嶌大輔(附属中) 取材日:令和元年12月14日 於:スイートワーク
中三デビュー
矢嶌 本日はお忙しい中ありがとうござい ます。今や日本を代表する映画監督であり、「世界の山崎貴監督」ですが、松本生まれ松本育ちで清水中学校OBでもあるということでとても親近感があります。 早速いろいろとお聞きしていきたいと思います。
「映画監督になりたい」と思ったのはいつ 頃からですか。
山崎 いつかは映画監督になりたいな、とは思いつつも、最初はVFXという特殊撮影技術の撮影者になりたいっていうのが子どもの頃の夢だったんです。その仕事の延長線上に「もしかしたら監督という仕事があるのか」、というぐらいでしたね。
矢嶌 それはちっちゃい頃からですか。
山崎 スターウォーズを見たときですね。たぶん12、13歳くらいの時だったかなあ。「スターウォーズ」と「未知との遭遇』が二大人生を変えた映画ですね。
矢嶌 中学生くらいから映画を撮られていたそうですね。
山崎 そうですね。 中学3年の時に生まれて初めて映画を撮りました。
矢嶌 それはどんなテーマの映画だったのですか。
山崎 人類が移住できる地球外惑星を探している探検隊がいまして、それが宇宙に出かけてる間に地球が核戦争で住めなくなった、という情報が伝わってくるんです。で、新しい惑星を見つけてそこに着陸して、「新しい地球にするんだ」、というところで終わるというストーリーです。美ヶ原にロケに行ったり、結構本格的にVFXもやりました。
矢嶌 だいぶ手先が器用でプラモデルとかすごい精巧に作っていらしたそうですね。
山崎 いろんな戦車のプラモデルとか、撮影用の宇宙船の模型とかを作ったりしてましたね。
矢嶌 監督がいないときに別の人が作ったらそれが気にいらなくてケンカしたことがあるとか。
山崎 僕が風邪かなんかで休んでる間に友が制作を進めててくれてたんです。でもね、部品の貼り方がまるでセンスがなかったんで、全部剥がしたんです。それでケンカになって大変なことになりました(笑)。こだわりはその頃からありましたね。っていうかね、やっぱり最終的に仕上げたいもののイメージのずれはやっぱりあるんですよ。どうしても僕は本当に海外のSF映画みたいなものにできるだけ近づけたいっていう思いがあって。他の子たちはわりと、まあ楽しく映画を作れればいいっていう温度なんで。だからやっぱりそこではどうしても温度差が生じて…どっちが悪いって話じゃないんですけどね。それを「こんなんじゃないんだよ!」って言って壊したら、友達は「なんで一生懸命作ったのに壊すんだ」って。
矢嶌 その後全部また自分で作り直したんですか。
山崎 そうです(笑)。
佐々木 撮影する機材ってかなり高価になると思うんですけど、どうされてたんですか。
山崎 機材に関してはね、すごい仲が良かった友達のおじさんが結構いいカメラ持ってって噂を聞いてて。みんなで自転車でその家に行って、「僕たち映画撮りたいんで機材貸してもらえますか」って話をしたんですよ。でも8ミリカメラって当時は高級機材なんでそんなに簡単に子どもに貸してくれるようなものじゃないんですけど、本当にすごく理解がある方だったんです。「じゃあわかった。お前ら将来大物になったら自慢するからサインしとけ」って言われて写真付きでサイン書いてそれでその高級8ミリカメラ貸してくれたんです。
佐々木 本当にそうなりましたね。すごーい!
山崎 当時を振り返ってみると、そういうのをちゃんと理解してくれて貸してくれたり許可してくれる大人たちがいてくれたからできたんだなあ、と思いますね。
先生
山崎 映画が出来上がって中学校の文化祭で上映するってなったんですけど、長野県の中学生ってなかなか映画作るような時代じゃなかったんで、すごい評判になってすごくお客さんが来てくれたんですよ。
矢嶌 清水中学ですごく有名だったそうですね。どこで上映したんですか。
山崎 視聴覚室でした。周りを暗幕で覆っそれですごいお客さんが来てくれたんですけど、お客さんが来すぎちゃって他の展示の先生が怒り始めちゃったんです。「あそこに客が来すぎて他の展示をみんな見に行かないからあれは中止させるべきだ」って言ってるっていう噂が流れてました。そしたら別先生が「あいつらがどれだけ苦労して映画作ったか知ってるのか?」って話をその先生にしてくれたんです。「上映が中止になるかもしれない」って噂が流れてたからドキドキしてたんですけど、その若い先生が「中止になんかしたらかわいそうだ」って先生同士で闘ってくれてそれを聞いて感動して泣いてました。
佐々木 そうやってかばってくれたり支えてくれたりする先生がいるって素晴らしいですね。
山崎 そうですね。それはすごく嬉しかったです。あとね、松本市と本郷村が合併して小学校4年生から清水小学校に編入になったんですね。その時の5、6年生の時の先生がすごくいい先生でノートをみんなに配って、とにかくなんでもいいから考えたこととか書いて持ってこいと。そしたら先生がそれに対して評論してあげるから、と。それでそのノートに「地球が止まったらこうなるらしい」とか「最近家のまわりで捕まえられたこんな虫がいた」とか、いろんな事を書いてノートを持って行ったらどんどん先生が評価してくれたんです。グラフも書いてくれて。
矢嶌 グラフですか。
山崎 それぞれの生徒が何ページどれくらいやったかっていうのをグラフにしてくれたんですよ。それで一冊ノートを作る毎に賞状をくれるんです。表彰してくれるんですよ。
佐々木 聞いてるだけでいい先生ってわかりますね。子どものやる気を引き出してくれるというか。
山崎 自分が何が好きかっていうことを探す、っていうことに対してものすごい考えてくださっている先生だったんで、なんでもいいからそのノートを埋めてったらどんどん点数くれるっていう先生でした。探偵小説いたりとか、そういうことしてましたね。
矢嶌 それ以外に好きだった教科とが得意な教科はありますか。
山崎 図工はダントツに好きでしたね。図工に関しては本当にお楽しみ時間でした(笑)。小学校1年のときのクリスマスプレゼントは「何が欲しいか言ったらきっともらえると思う」って言われたから、画用紙とワラ半紙を100枚ずつお願いしたんです。お願いしたら朝になったらちゃんと枕元に置いてありました。画用紙とワラ半紙ってなんでもできるじゃないですか(笑)。だからすごいいいものもらったな、と。
佐々木 環境がすごく良かったんですね。
山崎 本当にこの道に進むに関してはベストな親だったと思いますね。何やっても「それは好きだからね~」と喜んでる感じなんで。中学の受験の時期に映画撮ってるのもバレたんですけども、それも「好きだからね~」って。
メッセージ
矢嶌 最後に子どもたちへ向けてメッセージをお願い致します。
山崎 努力っぽいことを努力だと思わないくらい楽しいことが早く見つかるといいですね。これからの時代、何かモノが好きだってことがすごい力になると思うんですよ。「好きなことを追求すること」が仕事にしやすい時代がくるんじゃないかなっていう気がします。もうベーシックなことはAIとか機械がやってくれることが多くなってくると思うので、「人間しかできないこと」っていうのが重要な仕事になってくると思います。
佐々木 先生たちに向けて何かメッセージはありますか。ご自身が良い先生に巡り会えたというご経験を踏まえて。
山崎 大の大人が否定することの中に何か宝物を見つけてくれる先生がいたら・・・と思いますね。大人に肯定されるって、やっぱでかいんですよ。小学校5年、6年の時のその先生はたぶん他の人からみたら遊んでるようなことを評価してくれたから、「あっ、いいんだこれやってて」って思えたんです。だから高校時代にひどい成績取ってても(笑)、そんなに怖くはなかったですね。「僕には進む道がある」と思ってたので。こっちはそもそも勉強する能力がないんだから無理だけど、こっちの方向に行けばなんとかやっていけるんじゃないの、っていう自信みたいなものはたぶんその小学校の時の先生が作ってくれた自信ですね。
矢嶌 その先生との巡り会いは本当に大きかったんですね。
山崎 すごく大きな出会いでした。
矢嶌 本日はお忙しいなか本当にありがとうございました。